満月はとっくに仕事を終えて引っ込んだ。時計の針は26時38分を回る。
「せっかく覚えたのにいらないなんて」
「発音も変やし、使う言葉も変なんやもん。よーわからん」
おまえの日本語。
ヴォルグは石になった。ここまで努力が報われなかったことは今までに悲しいかな一度もない。ボクシングだってこんなに悪辣ではなかった。
「そんな、千堂ひどすぎる」
「酷かないわ、貴様の実力不足や」
お前とすると目え回んねん。頼むからもう耳元で意味不明な愛の言葉囁かんといて、もう寝かして
「ちょっと、千堂」
「もーうるさいうるさい」
千堂はヴォルグを退かせて掛布団をひっぱる。諦めの悪いヴォルグはひっぱられる布団の端に乗り、千堂が睡魔に蝕まれるのを阻止しようと試みる。
「わかった、千堂は言葉じゃなくて、ハグとかキスの方が良いのね」
「ひー! きしょすぎる、消えろ」
辛辣な言葉はいくらでも、そんなので倒れるくらいなら単身ロシアから日本に渡ったりはしない。
掛布団の端に爪を立て自分の方へ捲き込みながら、ヴォルグは目を虹型にする。そのまま口を目の下までつり上げて言った。
「ふふ、 それじゃあモウ一回かな?」
「それもちゃう」
布団返せ、とありったけの力と枕でヴォルグをばしばし叩きながら千堂は思う、「あかん眠すぎて目まわる」まあ眠いだけが原因と違うが―、、、自嘲気味に、しかし確実にヴォルグを叩く。
「いたいたい」
「だったらそこどけ」
さすがのヴォルグもめげ始めて、掛布団を釈放する。さっさと自分の方へ引き込んで、千堂は布団にもぐった。ヴォルグに唯一見えるのは、さっきまで月光でやたら茶色く見えた、千堂の毛先だけになった。 あ、そうだ!千堂千堂
「…なに」
「月に登っておしゃべりしませんか」
それが意味分からんてゆーとんのやぼけ、千堂はヴォルグを口先だけで一蹴したが、どうしてもうるさいので、仕方がないから布団に入れてやる。やたら
にやつく気持ちの悪い男を一瞬見たと思ったら、千堂はすぐに寝た。
一年前くらいのヴォルグの戦略、記憶はそこまで。あれはやつの亡霊だったと気が付いたのは、翌日洗面所の鏡で自分の目下のクマを見た時だった。
もう日本語なんて忘れているだろうか、日本語は忘れても構いやしないが、――、 。
その日の夜から、千堂は月に登る方法を本気で思案し始める。
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