台風の過ぎた秋晴れ、青空には絵に描いたような雲が見える限りではひとつふたつ、
ぷかぷか浮いている。 その下をいつものカバン、いつものジーパン、いつもの頭で少し早足で歩いた先には 「真田」と書かれた表札の豪邸、そしてそのすぐ隣に美しいマンションが建っている。
 医者のたまごと称されるモテるが偏屈な元ボクサーは、広い庭付きの屋敷をわざわざ出て、すぐ隣のきれいなマンションにわざわざひとりで住んでいる。
小奇麗な建物に小奇麗な扉、チャイムのベルに扉が開いた。「やあ」と掛けられた声に
「こんにちは」と唐沢が返す。真田が立つ隙間から、かぎ慣れたコーヒーの馨りが漂ってきた。






  - 豪邸の隣のうつくしいマンション






「自己欺瞞て言わないか」

「はあ、、 え?なんです」

「自己欺瞞」

「なんですか ジコギマンて」

「心理学でよくそう言うんだけどね」

例によって唐沢がカフェオレの入った格調高いカップをふうふうやりながら、「真田さん、
心理もやるんですか」と言うと「いいや趣味だよ」と半ば笑いながら真田は答える。

「趣味で勉強とか、考えられないですね」

「確かに唐沢はそういった類の人じゃなさそうだ」

「どういう意味ですかそれ」

「どういう意味もないよ、」

相変わらず真田は正面で笑っている。
唐沢は一度カップを諦めてその先の皿に乗る洋菓子に手を伸ばした。

「例えば、」
説明を始める先生を前にして、唐沢は久々のチョコレートの味で頭がいっぱいになっていた。始めの何秒かを聞き逃す。

「テスト週間だとする。テスト前夜に好きなボクシングの試合を観てしまった。だから勉強しなかった。
 したがってこのテストの結果はボクシングの試合を観てしまったせいで勉強しなかったためであり、自分の本来の力は出し切っていない、と勘違いする」

「仮説ですよねそれ」

唐沢は何故か苦い顔をした。

「て、じゃあ、それ、もしかして今の俺の何かを否定してます?」

「否定はしてないよ」

真田は事も無げにコーヒーカップのスプーンをくるくる回す。
唐沢はその動作に一瞬ひやりとしたものを受け取った。

「なんですか」

「お前はさ、」

飲むわけでも眺められるわけでもなくかき混ぜられただけのコーヒーは、ただカップの中で波打つ。

「勝てると思ってたわけじゃないんだよね」

「ええ、海と陸の割合です。俺が陸でって。始めに言ったじゃないですか」

「じゃあなんでやるって言ったんだ」

「それはその・・・ジム繁栄のためと、、後はプライバシーに関わります」

プライバシーねえ、、呟く真田の先に唐沢はまた菓子の包みを開けた。
重い一重瞼が眼鏡越しの視線から、逃げるように包みを見詰め続ける。

「それは言えないんだ?」

「かっこわるいじゃないですか」

「なにが?」

「あんまり、そういうの、べらべらしゃべるのって」

やっとのことで口にしたカフェオレに少しだけ冷静さを取り戻した唐沢は、回り始めた頭で
持論を展開する。奥の机の書籍の頁をカーテンがべらべらめくった。


「自分の行動する理由とか信念・・・てちょっと大げさだけど、誰かにしゃべった途端に、
すごく安っぽく聞こえたり、無意味なものになったりしません?そういうのって大事にココに
しまっておいて初めて成就するもんだと俺はおもうんです。
他の誰がどう考えてるかは分からんですけど、あんまりおしゃべりなのって男にあるまじき事だと、 ・・・
そりゃ会長には悪いことしたなとは思ってますけど、またがんばるって決めたし
だから真田さんのこと好きですけど、言いたくないです。それくらいあります。俺にだって。
つか、じゃあ自己欺瞞て、そんな言い方ないじゃないですか。いつ俺が事実を歪めたって
いうんです」


「唐沢にはチャンピオンと戦いたいということ以外に、ジムを明るくしたいという理由があるとする。そして自分よりチャンピオンは強かった、戦って負けた。
唐沢は会長とまたがんばると決めた。めでたし・・・、 でもこれって、自己正当化してると
思わないかい」

「なにがいけないんです?」

「お前はこれを会長と、いやもしくは自分だけの問題だと勘違いしている」

「・・・つまりその、」

「僕は、」


唐沢はカップで顔を隠しながら恐る恐る瞼を上げる。眼鏡の存在など吹き飛ぶほどの鋭い眼光が、唐沢の両目を貫いた。


「怒ってる」

「勝手に試合決めたことをですね」

「少しくらい相談してくれたって」

「だって真田さん忙しそうだったし」

「そんなこと関係ないだろう」

「ていうか、それ言いたいならそんな回りくどい言い方しなくったって!」

「百パーセント唐沢を言い負かしてやらないと気が済まないから」

「ひでえ」

「それに、あんな無茶な試合を組んだ理由だって知りたいよ」

「ないですよ他に理由なんて つぐみちゃんに話したのが全部です」

「そうそう、その、まず、なんでそういうことを話す相手がつぐみちゃんなんだお前は」

「いいじゃないですかそれは!一番話しやすかったから」

そこまで言って唐沢はカフェオレを喉に詰まらせて異常に、むせる。

「そのむせ方が大いに怪しいな唐沢」

「もういい加減にしてください、こじつけも甚だしいです真田さん」

鞄からタオルをひっぱり出して涙目でエホエホやっている唐沢を前に、真田は足を組み直し、素知らぬ顔でコーヒーを飲む。

「一番話しやすかったっていうのも聞き捨てならない」

「分かりました。俺が全部悪かったです。次からそういうことは真田さんに一番初めに
話します」

「当然だよ」




一分だけ開いた目でようやく満足げな顔をした、この人がモテるなんて絶対ウソだ。唐沢はそう確信しながら、 いつもおいしい晩御飯をいただいて、この豪邸の隣の美しいマンションを後にする。 真田が言った「無茶な試合を組んだ理由」というのも、唐沢はとうとう何も
しゃべらずに帰った。






























                        







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